工場の安全パトロールが茶番になる理由

工場の安全パトロールが茶番になる理由 ブラック企業の実態

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毎年10月が近づくと、工場が急に片付き始める。床の割れ目が塗り直され、工具箱の位置が数センチ単位で直され、現場は毎日チェックシートを埋めさせられる。労働災害を防ぐための安全パトロールが、いつのまにか「役員に指摘されないための準備」に変わっていく。この記事では、その構造がなぜ生まれるのか、そして現場の負担がどこに転嫁されているのかを整理します。

この記事でわかること

  • 安全パトロールが「指摘ゼロを目指す行事」に変質する仕組み
  • 安全活動のはずが現場の残業と睡眠時間を削る逆転現象
  • 形骸化した職場で消耗したときに考えられる選択肢

10月が近づくと工場が急にきれいになる

製造業で働いたことがある人なら、秋口の独特な空気を知っていると思う。厚生労働省は毎年10月1日から7日を全国労働衛生週間として実施しており、多くの事業所がこの時期に合わせて何らかの安全衛生活動を行う。標語の募集、安全パトロール、事故事例の勉強会。名目はどれも真っ当だ。

出典:厚生労働省「全国労働衛生週間」

全国労働衛生週間は、労働者の健康管理や職場環境の改善への意識を高めることを目的として毎年10月に実施される運動で、前月の9月が準備期間とされている。多くの企業がこの時期に合わせて社内の安全衛生活動を計画する。

「1人1個ノルマ」の安全標語

標語の募集はその典型だ。全社員に1人1個の提出を求め、優秀作品には商品券。締め切り直前に「気をつけて、今日も1日頑張ろう」レベルの一文を提出した経験がある人は少なくないはずだ。標語そのものが悪いわけではないが、ノルマとして配られた瞬間に、それは安全のための行為ではなく提出物になる。

役員が来ると準備の質が変わる

問題が大きくなるのは、このイベントに社長や役員が参加すると決まったときだ。普段は月1回の安全衛生委員会がメインの安全担当も、部長も課長も、急に必死になる。粗相があってはいけないという一点で職場全体が動き出す。安全の水準が上がるのではなく、見え方の水準が上がる。この違いは、現場にいる人ほどはっきり感じ取っている。

「指摘ゼロ」が目的になった瞬間、安全は形になる

安全パトロールの本来の目的は、日常的にその場所で働いている人には見えなくなった危険を、外部の目で拾い上げることにある。だから指摘が出ること自体は失敗ではない。むしろ指摘が出てこそ意味がある活動のはずだ。

危険を探すのではなく、指摘されそうな箇所を消す

ところが役員が来るとなると、順番が逆になる。危険箇所を見つけてもらうために準備するのではなく、指摘されそうな箇所を事前に潰しておく作業になる。移動式の工具箱が定位置のテープから3センチはみ出ていないか。床の割れ目が目立っていないか。指摘の数がゼロなら「しっかりしている工場」だと評価される、という前提が共有されているからこうなる。

生産技術として現場に出ていた立場から見ると、この構造は珍しくもなんともない。本当に危ないのは、テープからはみ出た工具箱よりも、日常的に無理な姿勢で作業している工程や、誰かの慣れだけで成立している手順のほうだ。ただ、そういうものは一日で直せないし、パトロールの当日にきれいに見せることもできない。だから優先度が下がる。

評価される側が準備する構図に無理がある

監査でも点検でもそうだが、見る側と見られる側が同じ社内にいて、しかも見られる側の評価に直結するとなれば、準備が発生するのは自然な話だ。個人の意識の問題として片付けても改善しない。指摘の数を成績表として扱うのをやめない限り、現場は隠す方向に動く。事故を減らしたいのか、報告書をきれいにしたいのか、目的が混ざったまま毎年10月が来る。

安全活動のせいで健康が削られる逆転

ここが一番おかしいところだと思う。労働者の健康を守るための週間に向けた準備で、現場の残業が増える。

チェックシートは現場の時間を食う

役員訪問までの期間、毎日5Sのチェックシートを埋めさせる。項目が数十個あれば、それだけで作業時間が削られる。そのぶんの生産計画が減るわけではないから、しわ寄せは残業に行く。残業が増えれば睡眠時間が減る。健康のための活動で健康が悪化するという、笑えない話になる。

現場に近い職種ほどこの負担は重い。日常業務の合間に安全対応が積み上がっていく感覚については、工場の生産技術がきつい理由|1日の実態でも触れているが、通常業務が減らないまま追加タスクだけ乗るのは製造業の職場でかなりよく起きる。

本気の対策は地味で、行事にならない

実際に効く安全対策や環境改善は、たいてい地味だ。40℃を超える現場で熱中症を減らそうとしたときも、効いたのは派手な施策ではなく、水分をどこで取れるようにするか、休憩をどう挟むかといった運用の積み重ねだった(40℃の工場で本当に効いた熱中症対策)。行事としては映えないから、役員が来る日の準備には選ばれにくい。

もし今、あなたの職場でも「見せるための安全」に時間を取られて、本来の業務が終わらず消耗しているなら、それは個人の頑張りで解決する話ではない。改善提案を出しても通らない、上司も評価を気にして動かない、という状態が何年も続くなら、その職場に居続けるかどうかを考える段階に入っている。自分から退職を切り出すのが難しい事情があるなら、退職代行という選択肢もある。費用がかかるうえ、円満退職にはなりにくく、会社との関係は基本的に切れる前提の手段ではあるが、話し合いのテーブルに着くことすら難しい人には現実的な出口になる。

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教育の中身を変える動きは出ている

形骸化する一方で、安全教育の手法自体を変えようとする動きもある。事故事例の共有は多くの職場で紙の資料を配って読み上げる形式が主流だが、これだと自分ごととして受け取られにくい。実際の事故を再現した映像教材を使う会社が増えているのは、資料では伝わらない怖さを伝えるためだ。

「思い込み」で人は死ぬ

電気工事の感電事故は、その典型として語られることが多い。もともと切ってあったブレーカーが今も切れていると思い込む。別系統のブレーカーがあることを確認しないまま作業に入る。検電を省く。ひとつひとつは小さな省略で、しかもその日までは何事もなく通ってきた手順だったりする。事故の直前まで、当事者は自分が危ないことをしている自覚がない。だから標語やチェックシートでは届かない。

安全教育のツールを変えること自体は前向きな話だが、それだけで職場の安全が改善するわけではない。人員が足りず、時間が足りず、報告すると怒られる文化が残っているなら、教材が良くなっても現場の行動は変わりにくい。

担当者の負担を減らす方向は正しい

ネタ切れの安全担当が毎月の委員会資料をひねり出す時間、現場が付き合わされるチェックシートの時間。こうした「行事を回すための時間」を減らして、実際の危険に向き合う時間を増やす方向であれば、道具を入れ替える意味はある。逆に、新しい取り組みが増えた分だけ現場の作業が増えるなら、また同じことの繰り返しになる。

形だけの職場で消耗しているなら、何を見るか

安全活動が形骸化している職場は、たいてい他のことも同じように形骸化している。改善提案、目標管理、コンプライアンス研修。どれも「やったことにする」ための時間が増え、実務の時間が減っていく。

自分の職場を見るときの3つの観点

  1. 指摘やヒヤリハットが出せる空気があるか: 報告すると責められる職場は、危険が水面下に沈む。数字上の労災件数が少ないことと、実際に安全であることは別の話になる。
  2. 追加業務に対して時間が渡されているか: 新しい取り組みを始めるとき、その分の工数をどこから捻出するのかを誰も考えていない職場は、必ず現場の残業で埋める。
  3. 上の評価を気にした判断が続いていないか: 役員の指摘をゼロにすることが目的化する職場では、判断基準が「安全かどうか」から「怒られないかどうか」に移っている。

どこまでなら耐えられるかを決めておく

この手の話は、すぐに辞めるべきだという結論にはならない。行事の時期を乗り切れば元に戻る職場もあるし、担当者が変われば変わることもある。ただ、毎年同じことが繰り返され、残業と睡眠不足が慢性化し、体調に出始めているなら、それは我慢の量の問題ではなく構造の問題だ。自分がどこまでなら続けられるのかを、比較的元気なうちに決めておいたほうがいい。

そのうえで辞めると決めたのに、繁忙期だから、人がいないから、と言い出せない状態が続くこともある。私自身、社内規定に沿って退職を申し出たときですら会社と揉めた。話が通じない相手を前にして自分ひとりで交渉を進めるのがどうしても難しいなら、退職代行を使うという手段は残っている。万能ではないし、退職後に会社と気持ちよく付き合う道はほぼ閉じるが、消耗し切る前に抜ける手段として知っておいて損はない。

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安全のための活動で健康を削られている状態は、どう考えても本末転倒だ。まずは自分の職場でその逆転が起きていないかを、今年の10月に確かめてみてほしい。